飛燕


作品タイトル「Unthinkable」
登場艦娘:熊野
司令官名:西村祥治中将(海兵三九期 第七戦隊司令官・第二戦隊司令官)


 特務艦「隠戸」の艦内で総員起こしがかかったのは、夜明けの二時間前だった。
 鳴り響く喇叭の音を聞き、二段ベッドで就寝していた艦娘や兵が弾かれたように飛び起き、身なりを整える。
 艦娘には一般の兵に比べて多くの時間が与えられているが、それでも多いとは言えない。殆どの艦娘は化粧もそこそこに、慌しく着替えを済ませ、部屋を飛び出した。
 戦闘態勢であれば配置、つまり現在であれば船室に朝食が運び込まれるが、兵員食堂に集合命令が下っていた。
 第二艦隊所属、第七戦隊旗艦である、重巡洋艦熊野もその一人だった。着替えを手早く済ませ、同じ部屋の戦隊メンバーに点呼を取り、部屋を出た。
 食堂は既に混雑が始まっており、うず高く積まれた朝食を猛烈な勢いで口に運んでいく戦艦達、その周囲を駆逐艦娘達が慌しく走っている。まだ外は暗闇だというのに、部屋はムッとするほどに暑かった。
 配食を受け取り、やや奥まったところにあった空席を見つけ、席に着く。
 米麦飯に里芋の味噌汁、茄子の辛子付けというシンプルなメニューだが、ここが南国であることを主張するかのように、まだ青みの少し残るバナナがついてきた。
 恐らくは隠戸の最終寄港地であるマニラで積まれた物だろう。マニラからここ、シブヤン海まではこの艦の足ならば一日半というところだ。青いバナナが熟すには少々短かったようだった。
 戦時統制下に置かれた内地では入手が困難になっているものだったが、味わって食べる余裕はない。夜が明けるまでに、行動を起こす必要があった。
 慌しく食事を終え、防水紙で包まれた錠剤を取り出す。
 ビタミンA球と呼ばれる錠を二つ口に含み、薬缶から注がれた水で飲み下した。これは夜間視力を維持する為に服用する薬だった。
 除捲覚醒剤、巷ではヒロポンと呼ばれる錠剤は飲まなかった。支給されたものの、一部の艦娘を除いて使用する者はいなかった。
 第二艦隊司令長官の栗田健男中将を始めとした一団が部屋に入ってきたのは、熊野を始め、艦娘の多くが食事を終えた頃だった。
 その場にいた全員が一斉に起立しようとすると、栗田は必要ないという風に手を振って見せた。
 栗田の表情は落ち着いていた。疲労がない訳はないのだが、それを感じさせるほどではない。少なくとも"あの時"ほどではない。
 やはり休息を取ったのが良かったのだろう。栗田はここにいる艦娘のうち、最も多くが出撃地としたブルネイを出港後、船を航空機を乗り継いでここ、サンベルナルディノ海峡のシブヤン海側数浬の地点まで来ていた。